きまぐれという言葉の語感の良さよ。
『きまぐれ星からの伝言』という本を読んでいる。
SF作家星新一の生誕90周年記念に去年、2016年の9月くらいに出版されて、発売直後に本屋で見つけて即買ったものの手付かずで、今更ながら読んでいる。
しかし2017年はデビュー60周年なのでそれにはまだ間に合うはず。
たぶんね。
俺が初めて星新一を読んだのは幼稚園の時。
おばあちゃんの家の本棚で文庫本の『悪魔のいる天国』をめくって、一番最初の「合理主義者」という話を読んだのが最初の星新一体験だった。
もちろんひらがなくらいしか読めなかったから漢字を飛ばして内容もわからず読んで、なんだこれは?となったことは覚えている。
あと挿し絵があったのも覚えている。真鍋博の絵で子供心には細い人だなあと思っていた。
そして小学生も高学年になり、学級文庫で再び星新一を見つけた。担任の先生がファンで、20冊くらいはあったろうか。
俺以外のクラスメートも読みふけっており、俺も読んでみようと数冊しか残っていなかった内の一冊を手に取った。
それは『とのさまの一日』だった。
星新一といえばSFのショートショートであるが、この作品は時代物のショートショートで少しテイストが違い、正直10歳そこらではよくわからなかった。
先生に、つまらん。と言ったら、こっちの方から読んだ方がいいよ。と手渡されたのが『きまぐれロボット』だった。
『とのさまの一日』の半分くらいの薄さで、なんだか物足りなさそうだと思っていたが、するすると読み進み、あっという間に読み終えてしまった。
ここが本当の星新一体験の始まりだろう。学級文庫のを読み終えるとばあちゃん家にあったのを掘り起こして読みまくった。
そこで初めて、幼稚園の頃に読んでいたことを知った。
今ではほとんどの作品は読んだ。
未発表作品集は買ったけど無くしてしまい全部読めてはいない。
このエッセイにしてもまだ半分も読んでいない。
しかし活字を読む体力がアホみたいに失われていて、全然読み進まない…。
というか文章力も死んでいる。
ここまで過去を羅列したけどなんてつまらない文章なんだろうか…。
星新一が作家になったのは会社を31歳の時。
27歳の俺が衰えを嘆くのはいささか早すぎやしないかね。
ネバーエンディングストーリー?
幸せな最後が万物に与えられていないことは知っていた筈なのに。
なぜ特別だと思っていたのか。
もふもふ
ねこの身体の下に手を入れてもふもふするのが好きだった子供の頃。
猫をまたもふもふしたい。
たった一秒生きるために
いつだって命懸け。
高校生の頃に聴いて今なお素晴らしい。
セイリングデイ。
この頃までは曲が前のめりな疾走感があるんだよなあ。
カルマよりもつんのめって演奏してる感じ。
穏やかになることが悪いことではなく、その曲ごとに応じてやれることをやれば良いと思うけど、その時にしか出来ないことというのもあるのはまた事実。
そのきらめきがどうしようも無くカッコよくてたまらなく憧れてしまう。
今のバンプの格好良さはリボンや流れ星の正体の感じで、それは本当に好きだし素晴らしいと思う。
だけどこのつんのめる曲が懐かしくなるのも仕方ないはずだ。
CDの中に閉じ込めた疾走感を解放する度に、初めて聴いた高校生の自分に帰れる。
元気を貰っていた自分。
それだけで歩けていた自分。
四分間限定のタイムマシンは、いつだってそこにある。
「もう少し浸っていてもいいかな?
また、力を借りてもいいかな?」
きっとこう返してくれるだろう。
当たり前だ、と。
まるくなる
眠たくて横になるといつもまるくなる。
布団に入っても同じ。
まっすぐ上向いて寝られない。
俺は猫なんだろうか。
さしすせソース
なんとか頑張って焼き飯作る気になったけど米ともやし炒めてる時にソースが空っぽだったことにきづく。
こそぐようにふりかけても米に陰影が付くくらいにしかかからない。
そして昼食べたら……。
明日どうしようかな。